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環境歳時記(5月31日):新潟水俣病公式確認の日(1965年)-2

2015年05月13日

 昭和電工鹿瀬工場では1936年から水銀を触媒としてアセトアルデヒドと合成酢酸の製造を開始した。そしてその時から阿賀野川に水銀放出が始まった。

 1959年1月には鹿瀬工場のカーバイド残渣堆積場が決壊し、堆積物約1万㎥が流出し、阿賀野川河口まで60kmにわたり魚が大量死し、2~3年は魚が取れなかった。

 同年11月には1956年発生の水俣病につき、通産省は水銀を使用している全国のアルデヒド生産工場7工場、塩ビモノマー製造工場16工場に対して極秘に工場排水の水質調査を依頼した。

 また、新潟水俣病が公式確認される4年前の1961年に、水俣病の発生源となったチッソ水俣工場(熊本県水俣市)と同様に水銀を使用していた全国の6社6工場を国が調査し、全工場の排水から水銀を確認していた。

 新潟水俣病が公式確認された1965年5月の直前、昭和電工鹿瀬工場ではアセトアルデヒドの生産を中止し、プラントは分解し徳山等へ、転用不可の設備は処分、製造工程図焼却するなど、あたかも証拠を隠滅するがごとく行動に出た。

 しかし公式確認後、引き続き実施された現地調査ではいずれも原因工場は昭和電工鹿瀬工場であると色濃く示すものであった。

 1966年3月厚生省新潟水銀中毒事件特別研究班の連絡会議では原因は鹿瀬工場排水中のメチル水銀であるとの報告がなされたが、またしても通産省等からの横やりで「工場排水を原因と断定するには不十分」との報告に書きかえられてしまった。そして調査研究結果はすべて非公開とされてしまった。

 水俣で水俣病発生後、その原因追究の過程で行われた原因の他の物への転嫁といったことの繰り返しがここ新潟でも始まった。

 その一つが同年10月に横浜国立大学の北川徹三教授の地震農薬説で、1964年の地震と津波によって信濃川河口の新潟西港にある倉庫に保管されていた水銀農薬が日本海に流れ出し,海流によって東側の阿賀野川河口に達し,塩水が川を遡る現象で阿賀野川の下流水域を遡上し,そこに生息する魚類を汚染し、それらの魚を取り口にした住民が水俣病に罹患したという説である。

 この地震農薬説はその後、証拠自体の信憑性が疑われ裁判の席上、否定されることとなった。

 しかし、原因工場と指摘された昭和電工の安西社長は雑誌「財界」誌上で原因究明に熱心に努力する新潟県北野衛生部長を「ケシカランやつだ」と中傷する。

 また1967年2月NHKテレビ「二つの証言・新潟水俣病の謎」で昭和電工安藤総務部長は「たとえ国の結論が原因を昭和電工としても絶対に承服しない」と発言した。

 この間、患者や家族は苦しくなる生活や遅々として進まない国の原因究明、そして昭和電工の冷たい対応に裁判に訴え真実を明らかにしなければならないとの結論に達して訴訟の準備を始めた。

 そして1967年6月第1陣の患者3世帯13名(最終的には第8陣までの34世帯77名)が、昭和電工を相手取って損害賠償請求訴訟を新潟地方裁判所に起こした。4大公害訴訟の最初であった。

 高度成長がもたらした負の遺産、公害問題が顕在化し、1967年の公害対策基本法の制定など遅ればせながら対策が国として取られ始めた中、政府も重い腰を上げ、1968年9月26日、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。

 裁判は1971年9月、阿賀野川に起こった水銀中毒は、昭和電工がアセトアルデヒド製造工程中から副生されるメチル水銀を阿賀野川に排出し、それに汚染された川魚を多く食べたことが原因である。また昭和電工には、1961年暮れ頃までには熊本県水俣病の原因が工場排水であることをしていたにもかかわらず、メチル水銀を含む工場排水を阿賀野川に排出した過失がある。との判決が出た。患者側の全面勝訴となった。

 先の既述の様に高圧的な対応をしてきた昭和電工もこのような全国的な公害問題への関心、そして国の対応の修正などあって、この裁判のついては昭和電工は控訴しなかった。

 裁判はその後も、水俣病認定制度で認定されなかった患者を中心に主に昭和電工、国に対して訴訟が繰り返され、最新では2013年12月に第5次訴訟が提起され、水俣病の被害を訴える県内外の男女が国と昭和電工に損害賠償を求めている。原告数は今年4月現在76名となっている。

 国の責任の有無の争点の一つに前述の新潟水俣病公式確認前の全国の水銀使用工場の調査に当昭和電工鹿瀬工場が入っていたかどうかがあるが、公表されたデーターには黒塗りで工場名は不明となっている。

 ここにも国の問題解決への消極的な面が現れている。

 写真は新潟地裁に向かう新潟水俣病の新潟4次訴訟原告団です。2011年3月3日(共同通信)

 新潟水俣病は熊本の水俣病公式確認後9年経った1965年の発生である。

 熊本大学で水俣病の原因物質が有機水銀である塩化メチル水銀であると確定されたのは1962年6月頃である。

 しかし県も国も動こうとしなかった。そして3年後、新潟水俣病の確認である。水俣の事件が早期に公表し、対応がなされていれば避けられたかもしれない新潟水俣病事件である。(完)

 現在の阿賀野川(新潟テレビ:UX報道スペシャルより)

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